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徳川吉宗―世直し将軍 (学研まんが人物日本史 江戸時代中期)
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によって 太田 じろう
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徳川吉宗―世直し将軍 (学研まんが人物日本史 江戸時代中期) [単行本]太田 じろう (イラスト)出版社: 学研 (1979/01)
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財政難に陥っていた徳川幕府を延命させた八代将軍・徳川吉宗の伝記漫画。江戸幕府も三代将軍・家光の治世で鎖国が完成し安定期に入ったが、・江戸の大火災の多発による再建費用・武士階級を中心に奢侈な風潮の蔓延・度重なる飢饉の発生による米の収穫減・佐渡や甲州の金山の掘り尽くし等の理由から家康時代に蓄えられていた金銀財宝も枯渇し、武士階級は商人からの借金に苦しむようになった。また、五代将軍・綱吉が後継ぎを残すことなく没し甥の甲府宰相・綱豊が六代将軍に就任するなど将軍家の血筋も危ぶまれるようになった。吉宗自身は御三家のひとつ紀州家の四男。母親は身分の低い女性で生まれてからすぐに家臣の下で養育され、成長した後に父親の徳川光貞と対面した。本来なら終生部屋住みの身で終わるはずが、将軍・綱吉に面会した際に気に入られて3万石の大名に取り立てられた。吉宗は生来の頑強な気質であり、乗馬・剣術・鉄砲・遠泳等の武芸に優れていた。紀州家を相続した兄の綱教が若くして亡くなり、父親の光貞も後を追うように亡くなる。そしてもうひとりの兄に当たる頼職も亡くなることにより、吉宗が紀州55万石を相続することになるのである。この相次ぐ兄たちの死に何があったのか?吉宗の関与を深読み出来ないこともないが、綱教は病死。光貞は綱教の死が遠因。頼職は父の臨終に駆け付けようとして無理な旅を続けたことで発病した。この時代の人間はまだまだ若死にする人間も多く、偶然が重なったのであろう。一方、六代将軍となった綱豊こと徳川家宣も治世僅かに3年で没し、幼少の家継が7代将軍となるも病弱で危篤状態となる。家宣未亡人である天英院の後押しが吉宗の将軍職就任を決めたとするが、最大のライバルであった尾張家の当主・継友は尾張家自体が「将軍職を望むべからず」という家訓により積極的な擁立策に動かなかったようで、藩主としての実績も加味して消去法で吉宗が選出されたとも取れる。(水戸家の綱條は老齢で本人の意欲も薄かった)吉宗の治世は幕藩体制が曲がり角に来ていた時期であり、政策としては・財政緊縮と新田開拓による収入の増産・武芸の奨励・裁判の公正化・将軍親政による幕藩体制の強化・大岡忠助に代表される人材の新規登用・鎖国の緩和(外国からの書物の一部輸入解禁)であった。これらは一定の成果を上げて幕府財政は最悪期を脱したかに見えた。けれど商業重視の世の中へと移りゆく中で、重農主義の幕藩体制は矛盾を抱え、それが徐々にであるが表面化して財政を圧迫していくのであった。世に「享保の改革」と呼ばれ、後に幕府の改革の手本ともされたが、その後の「寛政の改革」「天保の改革」は共に失敗・頓挫している。吉宗も晩年は物価統制に苦しみ、「米将軍」と仇名される。商人ではない武士階級出身者の限界であったか。
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